for the 125th anniversary of foundationTTHE HISTORY OF DOSHISHA ROWING1615 同志社大学ボート部は、1891(明治24)年4月に、石山で開催された端艇競漕の「第一回水上大運動会」をはじまりとしており、その表彰式では、「新島未亡人それぞれ表彰状と賞品を渡されたり」と記録が残っている(『同志社ローイング100年』(1991年刊、同志社ローイング記念誌編集委員会編、p.27)。 125周年記念誌の企画検討の中で、さらに歴史を深堀りできないかと考え、今回『新島襄自伝』(2013年刊、同志社編、p.301~302)に、新島先生が米国滞在中の1885(明治18)年8月3日において 「(中略)午後、ボート漕ぎで大奮闘する。」と記載があり、新島先生の直筆英文日記を確認することにした。 『新島襄自伝』(2013年刊、同志社編、p.301~302)には、「1885年8月3日 気温(華氏)62~65度。クラーク博士から来信。ギューリック氏は仙台に留まるべきだという見解は、支持し難いと思うと、博士は言われる。トーマス・J・デイヴィス夫妻から来信。夫妻は8月5日、プロクトンに来て、ボストンのホテルに泊まるとのこと。C・H・カーペンター師の自助論を読む。日本に適用する場合、彼の見解にまったく同意できる。ジョセフ・ジョンソンの健康に関する『自己努力』論を読む。午後、ボート漕ぎで大奮闘する。」と記載されている。 同志社社史資料センターのご協力で、新島先生の英文日記を調査頂き、直筆英文日記における記載を確認した。 『新島全集 第七巻(America Again)』p.259には、(中略)と記載があるが、直筆英文日記では、英文だけでなく、下段に新島先生によるスケッチが描かれており、大変驚いた。このスケッチは、多分ボートを漕いだコースなどを描いているのではないかとのことである。また、漕いだ艇のタイプについても記載はないが、漕いだ場所は、滞在場所から推測すると、米国の東海岸と推測されるとのことである。 スケッチ図や、スケッチ図のコメントは、残念ながら、現時点では解読されていないとのことで、今後の研究での解読を期待したい。 新島先生の第2回外遊(ヨーロッパ~米国)では、1884(明治17)年8月6日にスイスで遺書を残すほど病状が悪化されていたのに、その後体調が回復され、米国に渡り、翌年1885(明治18)年8月3日には、米国でボート漕ぎをされていたということで、ボートを楽しまれるほど体調が良くなったことにさらに驚いた。 「I had quite an experience in rowing a boat.」と新島先生が日記に記されているが、ボート部員、OB・OGと同様に経験されていたことが分かり、深い感銘と喜びを得ることができ、ここにご報告させていただく。 また、今回の調査では、同志社社史資料センターにご協力いただいた。深く感謝申し上げたい。In the afternoon I had quite an experience in rowing a boat.▲直筆英文日記に記されているスケッチは、新島先生がアメリカでボートを漕いだコースか。▲新島先生の直筆による英文日記。1885年8月2日~14日の記述がある。▲“In the afternoon I had quite an experience in rowing a boat”の直筆文。Special Column #01新島先生とRowing‒ 新島先生の直筆英文日記に、Rowingの記載を確認 ‒1885(明治18)年8月3日、米国。for the 125th anniversary of foundationTTHE HISTORY OF DOSHISHA ROWING0201collection of recollections写真で振り返る同志社大学ボート部全日本選手権決勝 2連覇(メルボルン大学招待)全日本選手権 決勝初代「WILD ROVER」建造メキシコシティオリンピック湖週記念撮影(琵琶湖周航記念)第一回春季水上大運動会「饅頭レース」↑同年4月15日、同志社大学ボート部の起点となる第一回春季水上大運動会が石山にて行われる。表彰式を校内で開き、校長の演説され新島未亡人(八重夫人)が賞状と賞品を渡された。(社史資料センター蔵)→手前から同志社大学・東京大学・慶応義塾大学・メルボルン大学・早稲田大学。日章旗とともにオーストラリア国旗も掲揚されている。 ↓ゴール付近。↑同志社校友会『校友会報』第九号(1902年2月15日発行)に『饅頭レース』の記事(社史資料センター蔵)。→初代「WILD ROVER」建造。同年8月16~17日の関西漕艇選手権大会(瀬田川コース)にて優勝を飾る。↑同年8月23日~25日開催の全日本選手権優勝。レース1800m付近(手前:同志社大学・向側:慶応義塾大学)。↑ロサンゼルスでの調整練習風景。←オリンピック壮行会(社史資料センター蔵)。195219681891190119101969for the 125th anniversary of foundationTTHE HISTORY OF DOSHISHA ROWING0605 1991(平成3)年秋、当時の高橋艇友会会長、国富100周年記念事業実行委員長により、ボート部創部100周年記念事業が盛大に挙行され、記念誌『同志社ローイング100年』が刊行されました。 あれから早や四半世紀が経過した今、この25年の足跡を振り返り、折々の思いを綴り記録を整理し、後世に伝えると共に、200年に向けての道標にしたいとの思いでこの記念誌を作成しました。 同志社のこの四半世紀は好成績の年もありましたが、単発的で持続せず、戦績的には総じて低調でした。また取り返しのつかない事故にも見舞われ、ボート部の存続を問われるような苦しいことの多い時代でした。そのようななかなか結果の出ないつらい状況の中で、部員たちは悩みながらも、安全な練習環境、長期合宿、栄養管理の改善など、その時々の新たな課題に粘り強く取り組み、今日の世代に繫いでくれました。 近年、艇友会の支援体制も徐々に高まり、2013(平成25)年には新合宿所が完成、用具や備品の整備も進みました。また、武田監督が中心となってボート部の理念が作成され、部のあるべき姿が明文化されました。部内に明るさと活力が戻り、これと並行して部員数が増え、今や総数100名に届こうとする勢いで、ついこの前までの深刻な部員不足も解消しています。 今日の明るく活力に満ちた現役生を見るにつけ、苦しい時も地道に努力を重ね、次世代にバトンを渡し続けたボート部125年の歴史を誇りに思います。 200年へ向けて今、同志社は発展期を迎えつつありますが、これまでの苦しかった時期を糧として、油断や慢心を戒め、決して後戻りすることなく、真摯にボートに取り組んでもらいたいと願っています。 艇友会はさらなる支援を推進してまいります。 最後になりましたが、125周年記念事業にご協力いただいた関係者の皆様に、厚くお礼を申し上げます。 200年へ向けて今同志社艇友会 会長新井 喜範ご挨拶ROWINGth125同志社ローイング125年15 新島先生とRowing ~1885(明治18)年8月3日、米国。~THE HISTORY OF DOSHISHA ROWINGCONTENTSご挨拶・祝辞collection of recollections特別寄稿Special Column #01Special Column #03Special Column #02同志社大学ボート部創部125周年記念座談会THE HISTORY OF DOSHISHA ROWINGSpecial Interviews060708091011121314小田切 拓ジャーナリスト平成4年卒1969年メルボルン大学ボートクラブチームキャプテンポール・マクスゥイーニー高知工科大学教授・同志社大学名誉教授元同志社大学体育会ボート部 部長岡本 博公同志社艇友会 会長学校法人同志社 総長同志社大学長同志社大学体育会長同志社スポーツユニオン 会長同志社大学体育会ボート部 部長新井 喜範大谷 實松岡 敬沖田 行司豊原 洋治志賀 理25年の戦績・部員名簿44DOSHISHA ROWINGのあゆみ5929新合宿所『ワイルドローバーハウス』竣工昭和45年卒 新井 喜範31WILD ROVER Ⅳの発見と帰還のいきさつについて昭和45年卒 清水 正俊33 25年のあゆみ 1991-201617創部101年目から25年の歩みを振り返り、未来を語る。01 写真で振り返る同志社大学ボート部 女子部員の活躍~歴代女子漕手インタビュー~2323 平成14年卒 香山 理恵子(旧姓:木村)25 平成19年卒 古池 美岐(旧姓:望月)27 平成28年卒 入村 悠33 1991 ボート部史上初、6分の壁突破。34 1992-1996 新たな100年へ。36 1997-2001 悲しき事故、復活、躍進。38 2002-2006 不安、新体制、新艇庫完成。40 2007-2011 WILD ROVER Ⅳ、帰還。42 2012-2016 新たな世代、新たな光。同志社大学ボート部を知るKEYWORDS58121. 年史 CL: 同志社大学ボート部 D: 武田 知也 GD: 烏丸 哲人1.
元のページ ../index.html#14